第22話:【月夜の琴の音】ヴァイオリンの幻想と、黄金色のあつあつ芋恋
吾輩は猫である。名前はソーセキ。
我が主人は、プレオープンの手応えと退職の日取りが近づくにつれ、夜な夜な繊細すぎるセンチメンタリズムに浸るようになった。
漱石の描いた『猫』では、寒月が月夜の晩にヴァイオリンを奏で、その切なく美しい音色に苦沙弥先生や仲間たちが聞き惚れる(あるいは呆れる)という幻想的な一幕があるが、我が主人が秋の月夜に奏でていたのは楽器ではない。プレオープン用のドリップポットからカップへと滴り落ちる、珈琲の「ポタリ、ポタリ」という抽出音であった。
「……ソーセキ、見ろよ。今夜の月は本当に綺麗だ。15年勤めた会社を去る日が、いよいよ目と鼻の先まで迫ってきたんだな……」
月明かりが差し込む静かな店内で、主人はしんみりと呟いた。
平日は相変わらず会社で赤シャツ上司から「引き継ぎが遅い」「独立なんて甘い」と嫌味を叩きつけられ、休日はこの路地裏で慣れない店作りに追われる日々。長年身を置いた組織を去る寂しさと、未開の荒野へ飛び出す恐怖が、月夜の静けさの中で一気に押し寄せてきたらしい。
「……胃がキリキリするよ。本当に俺、やっていけるのかな……」
センチメンタルな感傷と胃痛のダブルパンチに耐えかねた主人は、蒸し器の蓋をそっと開けた。蒸気とともに甘い香りが立ち上るのは、第6話でも登場した我が主人のソウルフード、菓匠右門の「いも恋」である。
「……やっぱり、迷った夜はこれに限るな」
蒸したてでホカホカの「いも恋」を両手で持ち、はふはふと息を吹きかけながら一口頬張る。
もちもちとした山芋ともち粉の生地、ホクホクとした大きな輪切りさつまいも、そして中に詰まったつぶ餡の優しい甘み。熱々の重みが、冷え切った主人の胃袋と心をじわじわと温めていく。
「……はぁ、温かい。どんなに不安でも、この温かさと甘みがあれば、明日もまた一歩踏み出せる気がするよ」
月光に照らされながら熱々の「いも恋」を完食した主人の顔から、切ない悲壮感が消え、温かな覚悟の色が灯っていた。
吾輩はカウンターから飛び降りると、月夜の感傷から正気に戻った主人の背中へ「ひょい」と飛び乗ってやった。
「うぐっ……ソーセキ。お前の体温も、出来たてのいも恋みたいに温かいな……」
主人は苦笑しながら、落ちないように背中を丸めて手でそっと支えてくれる。
――まぁ、今宵はお前の背中が少しばかり温かいから、許してやるがな。
【今回の聖地&川越スポット】
- スポット: 菓匠右門(川越市一番街・幸町ほか)
- 川越グルメ: あつあつの「いも恋」(菓匠右門)
- 小ネタ: 輪切りのさつまいもとつぶ餡をモチモチの生地で包み、蒸し上げた川越名物。退職を直前に控え、月夜に一人不安と感傷に揺れる主人の胃腸と心を、ホカホカの温もりで優しく包み込んでくれる。

コメント