第24話:【赤シャツとの決別】最後の辞令と、老舗「吉寅」のすき焼き
吾輩は猫である。名前はソーセキ。
我が主人はついに、15年間背負い続けた「サラリーマン」という名の甲冑を脱ぎ捨てる日を迎えた。
漱石の描いた『坊っちゃん』では、主人公が嫌味な教頭・赤シャツに天誅を下してイワナの頭を投げつけ、自ら辞職して東京へ帰っていったが、我が主人の決別はもっと静かで、そして泥臭く誠実なものであった。
金曜の夕刻。胸ポケットに退職届を忍ばせ、足取り重く役員室へと向かった主人。嫌味な上司・赤シャツは、相変わらずねっとりとした笑みを浮かべ、「今さら独立なんて、世間を知らない男の暴挙だよ」「君のような胃弱な男に、商売の厳しさが耐えられるのかな?」と、最後までプライドを削るような嫌味を叩きつけてきたという。
だが、今日の主人は違っていた。
「今まで大変お世話になりました。自分の足で立ち、自分の淹れた珈琲で生きていきます」
頭を深く下げ、静かに退職届を机に置いて部屋を出た。15年間の未練も、赤シャツへの恐怖も、すべてその場に置いてきたのだ。
夜、15年分の私物を詰め込んだダンボールを抱え、足取りもたつきながら我が店へ辿り着いた主人の顔は、精根尽き果てていたが、その瞳にはどこか晴れ晴れとした光が宿っていた。
「……ソーセキ、終わったよ。俺、本当に会社を辞めてきた……」
玄関に座り込んだ主人が、大事そうに抱えていた重箱を開けた。退職のお祝いにと、友人・菅が用意してくれた川越の老舗「吉寅」の「すき焼き」(またはすき焼き弁当)である。
甘めの割下でじっくりと煮込まれた上質な霜降り肉から、芳醇な肉の香りと醤油の焦げた香ばしさが一気に広がった。卵に潜らせて一口頬張ると、柔らかなお肉の旨味と濃密な割り下の甘みが口いっぱいに弾ける。
「……うわぁ、凄い……。お肉がすごく柔らかくて……タレの甘みが五臓六腑にしみわたる……」
一口頬張るごとに、15年間の泥臭い苦労、赤シャツに耐え続けた日々、そして独立への不安が、歴史ある老舗すき焼きの圧倒的な滋味によって力強いエネルギーへと昇華されていく。
「……ごちそうさまでした。今日でサラリーマンの俺は終わりだ。明日からは、この店の店主として生きていくんだ」
重箱を綺麗に空にした主人の顔から、胃弱サラリーマンの弱々しさは消え、一人の「城主」としての静かな覚悟が満ちていた。
吾輩はカウンターから飛び降りると、新しい人生の第一歩を踏み出した主人の背中へ「ひょい」と飛び乗ってやった。
「うぐっ……ソーセキ。重いけど……今の俺なら、どんな重みだって背負っていける気がするよ」
主人は力強く苦笑しながら、落ちないように背中を丸めて手でしっかりと支えてくれる。
――まぁ、今宵はお前の背中が少しばかり温かいから、許してやるがな。
【今回の聖地&川越スポット】
- スポット: 吉寅(川越市元町・一番街近く)
- 川越グルメ: すき焼き(吉寅)
- 小ネタ: 明治10年創業、埼玉県で最初にすき焼きを提供したとされる川越有数の老舗料亭。伝統の甘めのタレと上質なお肉が絡み合う贅沢な味わいは、15年の会社員生活に別れを告げ、独立という新たな大海原へ飛び出す主人の背中を力強く押してくれる至高の一品。

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