第9話:【バイオリンの習い事】深夜のアコギと「Fコード」の壁
吾輩は猫である。名前はソーセキ。
我が主人は、精神的に追い詰められると、なぜか「音楽」に救いを求めようとする悪癖がある。
漱石の描いた寒月は、何を思い立ったかバイオリンを買い込み、弓を磨くだけで一向に弾かずに放置したが、我が主人の場合はさらに性質(たち)が悪い。格好から入る性格が災いし、川越の楽器店でそこそこ良い値段のアコースティックギターを衝動買いしてきたのだ。
「ソーセキ、聞けよ。これからは言葉にできない想いを、この六本の弦に託すミュージシャン兼店主になるんだ。川越の夜に、俺のブルースを響かせてやる」
買ってきた当日の夜、主人は自慢げにアコギを抱え、ポロンと弦を鳴らした。
最初のうちは「C」や「G」といった簡単なコードを指で押さえ、「おお、鳴った!」と一人で感動していたが、旋律(メロディ)というものはそう甘くはない。間もなくして、初心者の前に立ちふさがる最大の難関――あの悪名高き「F」のコードが主人の前に立ちはだかった。
人差し指一本で6本の弦をすべて押さえるバレーコードである。
「……あれ? 音がペチペチ言うな。……くっ、指が届かない! なんだこの指の関節を破壊するためのコードは!」
指先を真っ赤にしながら奮闘すること三十分。ジャーンと鳴るはずの音は「ベチャ」「ミュッ」と惨めな不協和音にしかならず、主人の顔からみるみる情熱が引き潮のように引いていった。
「……無理だ。人間の指の構造上、これは押さえられないようにできている」
早々に解読不能の物理現象として処理した主人は、静かにギターをケースへと仕舞い込んだ。川越の夜にブルースが響くことはなく、ただ部屋の隅に鎮座するお洒落なインテリアがひとつ増えただけであった。
「はぁ……弦を磨くか……」
かつての寒月よろしく、ピックとクロスでボディを磨くだけの男と化した主人は、畳の上にゴロリと寝転がり、天井を仰いだ。
「音楽の世界も甘くないな。地道に本を売る方が、ずっと性に合ってるよ……」
吾輩は呆れつつも、挫折のショックで転がっている主人の背中へ「ひょい」と飛び乗ってやった。
「うぐっ……ギターのストラップより、お前の重みの方がしっくり来るな……」
主人は苦笑しながら、落ちないように背中を丸めてくれる。
――まぁ、今宵もお前の背中が少しばかり温かいから、許してやるがな。
【今回の聖地&川越スポット】
- スポット: 川越駅周辺の楽器店&夜の住宅街
- 小ネタ: 蔵造りの町並みや喜多院の周辺は、夜になると驚くほど静寂に包まれる。主人の密かなギターの練習音(と不協和音)は、路地裏の猫たちにバッチリ聴かれている。

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