【第17話】現代版・吾輩は猫である @ 川越

第17話:【寒月の物理学】抽出温度と、カリカリ弾む豆菓子

吾輩は猫である。名前はソーセキ。

我が主人の「古本と珈琲の店」には、時折、理詰めで人を追い詰めるインテリがやってくる。

主人の大学時代の後輩で、大手IT企業に勤めるシステムエンジニア・野々宮(ののみや)である。

漱石の描いた『猫』の理学士・寒月は、首くくりの力学やバイオリンの磨き方を物理学的に分析して苦沙弥先生を呆れさせたが、この野々宮という男もまた、珈琲の淹れ方をすべて「数値」で解き明かそうとする厄介な性質(たち)であった。

「先輩、珈琲豆の粒度(メッシュ)と抽出温度の相関データは見せていただけますか? 88度で3分20秒……なるほど、今日の湿度は60%ですから、この粉砕サイズでは過抽出になり、雑味のボラティリティが跳ね上がりますね」

プレオープンに向けてドリップの練習をする主人の横で、野々宮はタブレットにデータを打ち込みながら、冷酷なまでに理路整然と分析を重ねていく。

「野々宮くん……俺は別に、研究所を作りたいわけじゃないんだよ。ただ、お客さんにホッとしてもらえる一杯が淹れたいだけで……」

胃弱の主人は、後輩の圧倒的なロジックと数字の前に、小さくなってたじろぐばかりである。会社では上司の赤シャツに感覚的な理不尽で詰められ、店では後輩の物理学的な正確さで詰められるのだから、逃げ場がない。

場の空気がすっかり重くなったその時、主人が気まずさを紛らわせるようにテーブルへ差し出したのは、一番街の路地にある「川越まめや」で買ってきた「きなこ豆」をはじめとする豆菓子の小袋であった。

「……ま、固い話は置いといて、豆でも食べようよ」

野々宮は「糖分と脂質の補給ですね」と淡々と呟きながら、きなこ豆を口へ放り込んだ。

カリッ。ポリポリポリ……。

静まり返った店内に、軽快で香ばしい音が響き渡る。香ばしいきなこの甘みと、カリッとした大豆の食感。一口噛むごとに、野々宮の眉間のシワがゆっくりと解けていった。

「……カリカリと良い音がしますね。この大豆の煎り加減、香ばしさの引き出し方が非常にロジカルです。……美味しいですね」

「だろ? 数値も大事だけどさ、この豆菓子みたいに、噛んだ瞬間に『あ、美味しいな』って理屈抜きで笑顔になれるのが、一番だと思うんだよね」

主人の素直な言葉に、野々宮は一瞬ポカンとしたあと、「……ふっ、先輩のそういう情緒的なところ、嫌いじゃないですよ」と小さく笑った。

数字とロジックの緊張感が解け、店内に穏やかな空気が戻ってきた。

吾輩はカウンターから飛び降りると、理屈っぽい後輩をどうにかあやし終えた主人の背中へ「ひょい」と飛び乗ってやった。

「うぐっ……ソーセキ。お前の重さも、物理学的には何ニュートンとか計算されちゃうのかな……」

主人は苦笑しながら、落ちないように背中を丸めて手でそっと支えてくれる。

――まぁ、今宵はお前の背中が少しばかり温かいから、許してやるがな。

【今回の聖地&川越スポット】

  • スポット: 川越まめや(川越市幸町・一番街)
  • 川越グルメ: きなこ豆(川越まめや)
  • 小ネタ: 創業以来、多彩なフレーバーの豆菓子を揃える人気専門店。職人が丁寧に煎り上げた「きなこ豆」の素朴で香ばしいカリカリ食感が、理屈っぽくなった頭をほぐし、理屈抜きで笑顔にしてくれる。

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