第10話:【蝉をとる主人の奇行】カメムシの襲来と、小川菊の蒲焼き
吾輩は猫である。名前はソーセキ。
我が主人は、時として猫である吾輩よりも奇妙で素早い動きを見せることがある。
漱石の描いた苦沙弥先生は、庭の蝉をとろうと素手で飛びかかり、見事に空を切って転ぶという奇行を披露したが、我が主人が敵に回したのは蝉ではない。秋の気配が漂い始めた川越の路地裏で現れた、あの強烈な臭いを放つ「カメムシ」であった。
プレオープンを控えた店舗の掃除中、窓枠に一匹のカメムシを発見した主人は、急に顔を強張らせた。
「ソーセキ……あいつを刺激しちゃダメだ。一回でも奴に臭いを発射されたら、この店は開店前に潰れる……!」
主人はまるで特殊部隊の隊員のごとく身を低くし、ガムテープを手に静かに忍び足で近づいていく。そして次の瞬間――「はっ!」という叫び声とともに、素晴らしい跳躍でガムテープを繰り出した。
しかし、結果は惨敗である。
間一髪で逃げたカメムシは部屋の中をブンブンと旋回し、焦った主人はスリッパを両手にバタバタと暴れ回り、最後は畳の上に盛大に滑ってしこたま腰を打ちつけた。
「うぐっ……! 腰が……腰が逝った……!」
腰を抱えて悶絶する主人の横で、カメムシは開いた窓から悠々と外へ飛んでいった。吾輩が「無様な奴だ」と呆れて見つめていると、主人は天井を仰いだまま涙目になっている。
「……何やってんだろ、俺。会社でも上司の顔色を窺ってバタバタして、自分の店でも虫一匹に翻弄されて……」
腰の痛みと情けなさで完全に落ち込んでしまった主人は、自分を慰めるため、川越の老舗鰻店「小川菊(おがぎく)」で奮発してテイクアウトしてきた「うな重」の折箱を引き寄せた。
パカッと蓋を開けると、創業以来継ぎ足されてきた秘伝のタレと、香ばしく焼き上げられた炭火の香りが部屋いっぱいに広がる。
「……うわ、すごい良い匂い。やっぱり江戸時代から続く店のうなぎは格が違うな……」
一口頬張れば、ふっくらとした身の柔らかさと甘辛いタレの濃厚な旨味が、傷ついた主人の身も心も包み込んでいく。
「うまっ……! 腰の痛みも、惨めさも、全部このタレが洗い流してくれる気がする……」
うな重の圧倒的な多幸感に救われた主人は、腹を満たすとそのまま畳の上へゴロリと寝転がった。
吾輩は呆れつつも、カメムシとの激闘と腰の打撲で疲れ切った主人の背中へ「ひょい」と飛び乗ってやった。
「うぐっ……ソーセキ、腰のあたりに載るとちょうどいいマッサージになるわ……」
主人は背中を丸め、吾輩が落ちないようにそっと手で支えてくれる。
――まぁ、今宵はお前の背中が少しばかり温かいから、許してやるがな。
【今回の聖地&川越スポット】
- スポット: 小川菊(川越市仲町・大正浪漫夢通り)
- 川越グルメ: 小川菊の「うな重」
- 小ネタ: 江戸文化文政期創業、200年以上の歴史を誇る川越うなぎの名店。職人が一枚一枚丁寧に炭火で焼き上げる絶品うなぎは、失敗や挫折で傷ついた心を力強く蘇らせてくれる。

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