第2話:【水彩画の挫折】一眼レフと味噌パンの誘惑
吾輩は猫である。名前はソーセキ。
我が主人は、形から入る男である。
プレオープンを控えた「古本と珈琲の店」のSNS宣伝用写真を撮るのだと息巻き、会社員としてのボーナスをはたいて買った一眼レフカメラを抱え、早朝の川越一番街へと繰り出していった。
漱石の描いた苦沙弥先生は、写生に開眼したと吹聴しながら何一つまともな水彩画を描けずに投げ出したが、我が主人もまた同じ血を引いている。昼過ぎ、重い足取りで帰ってきた主人の首には、高価なカメラが虚しくぶら下がっていた。
「……ソーセキ、写真は諦めた。ボケ味とかF値とか、カメラって奴は難しすぎる。それに……」
主人は溜め息をつき、画面を見せてきた。そこに写っていたのは、ピンボケした蔵造りの街並みと、自分の指、そして道端の電柱ばかりである。技術のなさをごまかそうと「味がある」と言い張りたがるあたり、実に浅ましい。
「もういいんだ。俺には写真のセンスなんてなかったんだ……」
すっかり意気消沈した主人が、買い物袋から取り出したのは、菓子屋横丁の路地裏にある人気パン屋「パンの蔵 楽楽」の「お味噌のパン」であった。
「……傷ついた心には、やっぱり炭水化物だよな」
やけくその面持ちでガブリと噛みつくと、店内香ばしい味噌と優しい甘い香りが広がった。埼玉県産のサツマイモと秩父の赤味噌を練り込んだという餅粉入りの生地は、もちもちとして拍子抜けするほど優しい味がする。
「うまっ……なにこれ、めちゃくちゃホッとする……」
先ほどまでの挫折感はどこへやら、主人は頬を膨らませて子どものように目を見開いている。写真の技術がなかろうと、美味いものを食べた瞬間の顔だけは実にわかりやすい男だ。
吾輩がカウンターから「一口寄こせ」と鳴いてやると、主人は「猫には塩分強めだからダメ」と焦ってパンを隠し、申し訳なさそうに吾輩の頭を撫でてきた。
「はぁ……カメラはダメだったけど、この味噌パンみたいに、一口食べただけで心が緩むような珈琲が出せたらいいな」
落ち込みから一転、単純すぎる発想で前を向く主人は、ソファにゴロリと横になった。
吾輩は呆れつつも、ささやかな希望を抱き直した主人の背中へ「ひょい」と飛び乗ってやった。
「うぐっ……重いな。でも、お前が乗ると『まあいいか』って思えるよ」
――まぁ、今宵はお前の背中が少しばかり温かいから、許してやるがな。
【今回の聖地&川越スポット】
スポット: パンの蔵 楽楽(川越市元町・菓子屋横丁近く)
川越グルメ: お味噌のパン(パンの蔵 楽楽)
小ネタ: 秩父の赤味噌とサツマイモを練り込んだ、外はカリッ、中はもちもちの看板商品。素朴で優しい甘じょっぱさが、写真撮影の挫折で傷ついた主人の心をじんわりと癒やす。

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