第14話:【催眠術と自己啓発】ビジネス書と、甘じょっぱい醤油アイス
吾輩は猫である。名前はソーセキ。
我が主人は、ストレスがピークに達すると謎の行動に走る習性がある。
第1話ではさつまいもチップを爆食いし、第12話では一人で落語の練習に打ち込んでいたが、今回の迷走はさらに重症であった。平日の会社で赤シャツ上司から嫌味を言われまくった主人は、ネットで購入した怪しげなビジネス書を抱えて帰宅したのである。
タイトルは『1日5分で潜在意識を塗り替える! 絶対にブレない自分を作る自己肯定感マインドセット』。
漱石の描いた苦沙弥先生も、友人たちの妙な講釈や哲学に振り回されては首をひねっていたが、我が主人は自ら進んで怪しげなマインドフルネスの毒に侵されにいっているのだから世話がない。
「ソーセキ……俺は変わるよ。今日から『断れない自分』を捨てるんだ。まずはマインドコントロールからだ」
主人は部屋の明かりを薄暗くし、あやしげなヒーリング系BGMをスマホで流しながら、目を閉じて深呼吸を始めた。
「私は強い……私はブレない……赤シャツの言葉など、すべて耳を素通りする風の音に過ぎない……」
ブツブツと呪文のように唱える主人の姿は、新興宗教の信者か、怪しい催眠術の実験台にしか見えない。吾輩が「くだらん」と呆れて鼻を鳴らすと、主人は薄目を開けて吾輩を睨みつけた。
「静かにしろソーセキ、今、潜在意識が書き換わっている最中なんだから……」
しかし、どれほど「自分は強い」と思い込もうとしても、昼間に会社で言われた「君の作業効率の悪さには参るよ」という赤シャツのねっとりとした声が脳裏をチラつき、主人の額にはジワリと冷や汗が滲んでいた。言葉だけの自己暗示など、現実のストレスの前には薄い紙切れ一枚ほどの強度もないのだ。
「……はぁ、ダメだ。頭が余計にモヤモヤしてきた……」
三分ともたずに自己啓発タイムを断念した主人は、頭を抱えてコタツへ逃げ込み、冷凍庫から保冷バッグを取り出した。川越の老舗・松本醤油商店で買ってきた「はつかり醤油アイス(または甘露醤油ジェラート)」である。
「やっぱり、無理にカッコつけるのはやめだ。冷たいもので頭を冷やそう……」
スプーンで一口すくって口に運ぶと、ひんやりとした冷たさのあとに、芳醇な醤油の香りと絶妙な甘じょっぱさが口いっぱいに広がった。焦がしキャラメルのようなどっしりとしたコクと香ばしさが、空回りしていた主人の脳味噌をじんわりと鎮めていく。
「うわ……これ、甘じょっぱくてすごく美味い……。変なマインドフルネスより、この一口の方がよっぽど正気に戻れるわ」
甘さと塩気の絶妙なバランスに救われた主人は、脱力したように畳の上に寝転がった。言葉で自分を偽るのをやめ、素直に自分の弱さを受け入れた男の顔には、ようやく穏やかな色が戻っていた。
吾輩は呆れつつも、迷走から生還した主人の背中へ「ひょい」と飛び乗ってやった。
「うぐっ……ソーセキ。お前の重みが一番の現実逃避予防になるよ……」
主人は苦笑しながら、落ちないように背中を丸めて手でそっと支えてくれる。
――まぁ、今宵はお前の背中が少しばかり温かいから、許してやるがな。
【今回の聖地&川越スポット】
- スポット: 松本醤油商店(川越市仲町・醸造エリア)
- 川越グルメ: はつかり醤油アイス(松本醤油商店)
- 小ネタ: 江戸時代から続く木桶仕込みの天然醸造醤油「はつかり醤油」を使用したご当地アイス。醤油のコクと甘じょっぱさが絶妙な味わいで、怪しい自己啓発本で空回りした主人の頭をすっきりと冷やしてくれる。

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